20年後の授業。 [著:僕] 【PRO’SONE出版小説風現実綴書】
僕は小学時代はバスケット部で、中学時代はテニス部の所属だった。
テニスは、軟式テニス部だ。 当時、日本女子プロテニスプレイヤーの伊達公子選手は僕ら少年テニスプレイヤーにとっても憧れの存在だった。
そんな時代の話をこれから進めていく。
僕は昔から絵を描くのが好きで、同時に得意でもあり、他に自慢できることがないから唯一の自慢といえば学生時代、「図工」や「美術」の通信簿は「5」しか取ったことがない。
小学校では図工、中学校では美術と授業の呼び名は変わる。
先の理由により、これ、ちょっとだけ“自慢”だ。(←エッヘン!)
中学1年、2年は上記スポーツ部の所属だったが、もともと絵が得意ということもあり、美術展に出品する僕の作品は小学時代も中学時代も何らかの賞をいただくことがあり、そんな時は賞状をもらいに行くために学校を特別休んで(もちろん学校公認で)都会に表彰式に出向いたこともある。
表彰式ではゲストで出席していたタレントさんから直々に賞状を手渡しされたこともあるほどだ。
それほど色を扱うのが好きで、絵が得意な少年だった。
ついでに作文も得意で上手だった。
その才能は小学4年生にまで遡り、放課後、一人先生に残され作文コンクール出品作品のための作文の猛特訓を受けた記憶もある。
“作文”に関しては、今でもその才能を余すことなく発揮しているから(←ココ笑うところ!)、大人になった今は釣りにまつわる著書を出したり、雑誌やコラム連載など「魚釣りの分野」で僕が書いた作品は世の中に多少なりとも出ていった。
なんとか地獄とかという10年以上続いている毎年10月に発売されている、かの有名な根魚専門書も毎年僕が自己ページは責任ライターとして筆を振るっている。
10数年前、当時の編集長が「キミは文章がうまいから自分で書いた方がいい。書いてほしいんだ。」と電話で言ってきて、とりあえず、まぁ、受けることにした。
だが、これには先方にもメリットはあったはずだ。
演者とライターが一緒なら現場にはあとはカメラマンだけがそこでいればいい、という極めてスムーズな取材環境だから、さぞかし出版元も楽なことだろう。
そうなのだ。いくら釣りが上手でも文才を有してなければカメラマンの他にライターも別に送り込まなくてはらなず、出版社としても余計に経費もかさむ。
誰かが一人二役をこなせれば、雑誌のロケであればテレビロケと違って現場も二人でこなすことも難しいことではない。
まぁ、それらを含めてこれまでに輩出した作品は、どれも僕が生み出した作品であり、我が子供というわけだ。
この綴りでも悠長に語られる長文かつ駄文を、このブログの読者はいつも読ませられているわけだから、「この人はこういう人なんだぁ~」と“慣れっこ”かと思う(笑)。
※
今から20年前。
中学3年生の春―。
テニス部所属だった僕は美術部の顧問の先生にある日、言われたのだった。
ちょうど、午後の時間。
5時間目と6時間目が連続する美術の授業が終わりに近づいた時間だったと記憶している。
僕の描いた作品を見て、「ふみくん、あなた、入る部活を間違えたわね。」
「どうかしら。中学生活も残り1年だし、もし良かったらこの最後の一年は美術部に入ってみない?
テニス部の先生には私からもうまく言ってあげるから。 ね?」とー。
僕は軟式テニス部の所属だった。
だが、テニス部は正直、辛かった。
テニス部の先生は熱血テニス中年男で、自身も若い頃は長きに渡ってテニス少年だったらしい。
大人になった今も、趣味はテニスのままのようだ。
日焼けという日焼けの結果なのだろう。
やけに色黒の顔に黒いサングラスはとても似合っていたが、一件、ヤバイおやじ(←失礼!)、怖そうにも見えていた。 それと、たいていテニスの試合の待ち時間には手には競馬新聞を掴んでいた。
事実、毎日の練習で僕らに向けられるその指導はとても厳しい。
思えば、いつも怒っていたような気がする。
テニス部の先生の逆鱗に触れぬよう、練習でもミスをできるだけしないよう皆、必死だった。
仮にミスでも犯したら、「校庭10周走ってこい!!」と雷鳴など轟く(とどろく)ことなどない天気なのに僕らの真上にだけ局地的な怒りの雷が落ちた。
土曜日の午後は他校との練習試合を組まれ、日曜日には色々な大会に参加させられた。
学校の授業が終わった平日放課後は夜7時まで厳しい練習にあけくれ、土曜日の午後は練習試合、日曜日は大会参加とこれじゃ休みがないじゃないか!
大好きな釣りにも行けやしない。
そんなこと積もり思っていた矢先、中学3年生になった春の4月に、美術の授業を担当していた40代の女性教諭(同時に美術部の先生)からの思いがけない一言には救われる思いがした。
美術部かぁー。
まぁ、紙とペンがあればいつでも描けるわけだから、美術部に中3のいまさら入部しなくても絵は描ける。大作は別として落書き適度のラフイラストであれば。
だけど、少し嫌気がさしていたテニス部をなんとか穏便に辞める方法には「もってこい」だった。
美術部なら練習試合もないし、自分のペースで部活が出来る。
この部に限っては、絵を描いている人間はあまり社交的じゃない人も多いわけだからチームプレーも必要ないし、誰かに迷惑をかけることもない。
試合もなければ、日曜日は釣りに行ける時間が取れるぞ…(ニヤニヤ)。
そんな不純な動機ゆえに、美術部の顧問の先生からのスカウトを前向きに受けることにした。
“美術部の先生のお墨付き”ということで、テニス部の先生に文句も言われることなく僕はスムーズに美術部に移れることになった。
美術の先生には感謝だ。
ダブルスを組んでいた友人には申しわけなかったが、勝ち負けの勝負に徹底してこだわるテニス部の先生の指導の影響か、当時のテニス部は優劣にこだわる奴が多かったから、そんなしがらみから開放されるのも気が晴れるものであった。
しめしめ。
これで土日の部活は完全に休みだから、存分に釣りに行ける。
しかも、僕は絵が得意だから絵を描くことはなんら苦になることは何もない。
中学3年の5月から放課後の部活動は、ずいぶんと楽になった。
佐藤少年は平日の午後は美術室で絵を描き、日曜日は思う存分釣りに出かけた。
つまりは「学校」と「プライベート」をうまく両立できることに成功したのだ。
そのときの先生、美術部の先生は僕にとってもかけがえのない恩師の一人だ。
いや“助っ人”といってもいいかもしれない。
1年生や2年生という後輩たちがいる手前、3年生の“新入部員”は絵の実力でバカにされたら困ると思い、その腕力を存分と披露した。
若さゆえの極めて傲慢な態度姿勢だが、確かに僕の絵は素晴らしい画力があったから同級生や後輩達からも尊敬の眼差しを集めることに成功した。
9月の学校行事「合唱コンクール」の巨大製作画や10月の「文化祭」の展示室の演出は、“裏部長”として手腕を発揮した僕を筆頭とする並々ならぬ努力で学校中の評判を得るのだった。
きっと先生も、僕をテニス部から引き抜いて「良かった」と本心から思ってくれるだろうと、せめてもの僕なりの恩返しのつもりだったのだ。
その後、高校時代は最初から美術部に入部し、影の“裏部長”として君臨。
人見知りな性格ゆえに大勢を相手にするのは苦手な僕だったので、本来は部長の座などに座るはずもなく人を束ねるのはお世辞にも上手だとはいえないが、深く物事を考えるタイプではないものの明るい性格の友人こそ表向きのキャラクターにはちょうど良いと部長に推薦し、そのかわりに影のサポート役として事実上、部活動を切り盛り?支配?していたのは僕だった。
これぞ、品行方正の好少年のあるべき姿。
仮にここが男子校ではなく、男女共学だったのなら僕はきっと女子生徒にモテたはずだと想像上では自認する。
だが、悲しいかな現実は「野郎ども」しかいなかったからとても残念だった。
あれから20年後の2017年9月の今。
当時、中学時代の美術の先生は現在は画家へと転身(※クリックで見れます)されている。
僕が15歳のとき、先生は40歳だったからあれから20年経過した現在は60歳。
典型的なお絵かき少女がそのまま大人になったような(←失礼!)その美貌はあまりお変わりはないが、やや白髪が目立つ。
20年という歳月は、つややかだった黒髪を白髪に染めるには十分な時代の流れなのだろう。
だが、メガネの形は当時と同じだからなんだか安心感を覚える。
先生は画家として工房を持ち、以後も美術の心を持った生徒へ日夜教えをこうている。
現在は障害を持った子供たちに絵を描く喜びを伝えるプロジェクトにも取り組んでおられる。
相変わらず、偉大な先生だ。
さすが、この僕の才能を見抜いてテニス部からスカウトして自身が担当していた美術部に引きこんだことだけはある。
数年前にも先生の作品展覧会(個展)があり、そのときも僕は先生の作品展を見に行った。
そのときに購入したカレンダーは今でもうちのプロズワンの壁に貼ってあるのだ。
今月の半ばくらいだったろうか。
少し前に、旧友から連絡があった。
小中学時代の同級生だ。
「●●先生が主催している教室の展覧会があるらしいぞ。行ってみたらどうだ?」と。
そうか。
なら、行ってみようかな。
旧友君、教えてくれてありがとう。
多忙な仕事の合間を縫って、「気分転換もいいな」と思い、先生が主宰するアトリエの生徒さんたちの展覧会に行ってきたのだ。
会場に到着すると久々に聞く、なつかしい声が聞こえてくる。
先生は他のお客さんに作品を説明しているようだ。
パッと目が合った。
「先生~」と僕が言葉を発すると、「来たなぁ。フィッシャーマン!」と返してくる。
内心僕は思った。フィッシャーマンはやめてよ、と。
釣り人の前に立てば、確かに僕はフィッシャーマンだ。
いや、フィッシャーマンに変身しなければならない。
変身グッズは、サンバイザーに偏向グラスを必要とするキャラクターだ。
最近は夏の熱中症が怖いので、サンバイザーだけでなくハットも好んで被るようになった。
話は、戻る。
だけど今はごく普通の30代半ばの健全な男子なのだ。(このあたりでもう一度笑ってほしい!)
いやはや先生、久々にお会いしたというのに、なんという挨拶だと思ったが、とりあえず「お久し振りです、先生。 お変わりありませんか?」と返しておいた。
しばし先生と談笑しながら生徒さんの作品を鑑賞し、中学時代の思い出話に花を咲かせて1時間少しの間を楽しく過ごすことが出来た。
障害を持ちながらも自由に筆を滑らせた未来の画伯の絵が気に入り、その子が描いた作品のポストカードを“私”は2枚購入させてもらった。
このお金はこの子のところに届けられる。
そうすれば、自分の描いた絵がお金になって自分のところに戻ってくるという喜びを僕は知ってほしいとも思った。
もちろん、無垢な子供のことだから、どこまでそこを理解しているのかは定かではないが、クリエイターの世界は自分の世界観や価値観が評価されることは作品を買われることであり、結果、それが喜びと自信につながり自作に取り組むキッカケとなる。
現在の僕もそうだ。
自分の作った釣り道具や自分の書いた本に対価がつくことで、売り物として認識されることこそがクリエイターの果たすべき基本だと思っている。
創造主とは必ずしも何かの宗教だとか団体とかのものではなく、ごく一般にありふれた作品や商品さえも生み出された産物なのだ。
だが、釣り師という変な職種は体力的にも精神的にもいつも追いやられていて、これらが続く限りは出来るだけ頑張ろうとは思えるが、何かがプッツンと切れたときには華のあるうちに、そっと静かに身を引いた方がカッコいいというのが僕の持論だ。
仮に僕にもそんなときが、いつか訪れようともそのときは皆は心穏やかに見送ってほしい。
死ぬまで現役(プロの)釣り師はしない、というのが僕の条件なのだ。
海で死なないこと、川で死なないことも絶対条件。
あたたかい布団の中で、おだやかに死にたい。という人生プランになっている。
話は戻る。
「今日はわざわざ仕事を休んで来てくれてありがとう」と先生に言われたが、実のところ仕事を休んできたのではない。
無駄口は叩かない主義だが、休んで来たのではなく、一時的に抜け出してきている。
だけど、それは別にここで言う必要はないだろうと思ったので、まぁ黙っておいた。
僕はその後も仕事があるので、そろそろ帰路につかなければならない。
帰り際、「これ、書いていって!」と先生に手渡された。
アンケート用紙と鉛筆箱だ。
しっかし、鉛筆箱ってなつかしいなぁ。
僕は字を書くときはHB、絵を描くときはFを使っていた。
だから今日は当然、HBを使う。
僕は中学生までずっと鉛筆派だった。
シャープペンシルに持ち替えたのは高校生になってから。
だが、初めて手に入れたシャープペンシルは小学4年生のときで、「これが未来の鉛筆かぁ!」と佐藤少年の中でなんてかっこいい鉛筆なんだ!と心がときめいたのを覚えている。
しかし、今日は、黄色い紙と鉛筆を渡された。
いわゆる、アンケートっぽいやつだ。
書いていると、先生が僕の席のそばまでやってきて用紙をのぞいてくる。
「先生、なんだかテストを受けているみたいじゃないですかぁ」と言った。
そしたらこう言われた。
「大丈夫よ、採点はしませんから!」と。
この切りかえしは、さすが先生だ。
というよりも、アンケートで採点されたのでは困る(笑)。
達筆な字と、的を得た的確な文章で来場者アンケートにしては上出来なくらいの内容で書き終えた僕は「書きましたよ、先生。」とご本人に用紙を手渡ししたのだった。
そして帰ろうと席を立ったときー。
「ふみくん、名前書き忘れているわよ!」と撃が飛んできた。
なるほど、 答案用紙が名無しのゴンベイだったか!
しまったな、こりゃ。
採点されればきっと100点満点とれるであろう答案用紙もこれでは0点だ。
意味がない(笑)。
「なんだか、学校で授業受けているみたいですよ…先生」と苦笑をはらみつつ返して先生を見ると、先生は「アハハッ!」と大声で笑っていた。
20年前の美術の授業を今になってまた受け直している感じが、とても心地よい。
なんだろう、この感覚は。
私ももう30代の半ば、35歳のいい年齢の男だ。
がしかし、教え子がどんなに歳を重ねようが先生にとってはいつまでもあの時のままなのだろう。
先生の瞳には15歳の僕がそのまま目に映っているのかもしれない。
先生だって、年齢を重ねているのにね。←失礼!
いよいよ帰ろうとしたところ、スタッフと思われる妙齢の女性奥様方お二人と目が合ったので、「今日はおじゃましております。あ、あの…。私、先生の20年前の生徒なんです。」とお辞儀をして挨拶したら、「あらぁ、まぁ、そうなの~!?」と言われた。
「はい」と返した。
「あなた今おいくつなの?」
「35歳です。 30も半ばですから、もういい年齢です(笑)」
「そうなの!? 35歳には見えないわね、大学生くらいに見えたわ!」
おいおい、大学生は言いすぎじゃねーかー!?と心の中で突込みつつ、実は何気にうれしかったりする。
なるほど。 それほど僕は若々しくかっこよく見えるのかぁ、と自分の都合が良いように勝手に自己分析。
と、同時にー。
そうか、お世辞を言われてうれしくなる歳に僕もなってしまったのか…(涙)。
いえいえ、と謙遜したが、「でも20代に見えるわよ、あなた。」と言葉巧みに続けられ更に照れた。
そこでまた先生が僕を見送りにやって来た。
「そういえば、ふみくんは結婚してるんだっけ?」といささか余計なたわごと(←失礼!)を口にしたので、面倒な質問にも答えてあげることにした。
「いえ、しておりません。」キッパリと自信満々に返答してやった。
「でも、いい人は誰かいるんでしょう?」とまたまた追従をかける。
「いえぇ~、そんなぁー。いませんよー、誰も。」
「そうなの!? それはもったいないわ!」
「いえいえ、私は変わり者ですから。釣りなんぞ変な仕事もしておりますし。一人は気が楽でいいです。」
「ダメよ~。メスの魚ばかり追っかけているようじゃ。」と先生が巧みな話術を僕に向けると、妙齢のスタッフ奥様2人組がケラケラと笑っている。
さすがの僕も苦笑のあまり、顔を少し赤くして下を向いてその場をやり過ごすしかなかった。
確かに、メスの魚には人気がある。
ふ、ふ、ふ。
この僕様の手にかかれば、ネウっこも、ソイっこも、カツカっこも、さすがに逃げられないだろう(たまに釣れないけどね 笑)。
ハタは大きいのはオスだから、この場合は除外しておく。
プリスポーン、つまりは釣り用語の世界では産卵前という意味になるメスの魚は僕が投じたルアーを選んで喰ってくるようだから、ルアーに添付された味と匂い以上に彼女らに魅力的なフェロモンでも醸し出しているのだろうか?と一瞬だけ余計なことを考えてみる。
下りの階段に足を踏み出すと、
「仕事は大事よ。だけど趣味でも魚釣りばかりやってないで良い人も釣りなさい。第一に、あなた魚釣りのプロでしょう。
テレビで観る有名なプロの釣り師“くん”も、人間の女の子を釣れないようではダメよ。」
またもや撃が飛んできた。
黙っていたら、先生はニコッとして少しの間をおいて別れの挨拶で締めた。
「じゃ、しっかりね! またね~。」
あ、そうだった。
先生は、“夢なんとかという釣り番組”でも画面に映る僕の姿を観ているらしい。
はぁ…。
分が悪い。
正直、「余計なお世話ですよ!」と心の中で“あっかんベー”をしながらお返しの言葉とさりげない心遣いに感謝の念を先生に送りつつ、「さすがにこれ以上は危険」だと察知した賢い僕は、先生の方を振り返らず足早に去って帰ってきたのであった。
数年ぶりにお会いした中学時代の美術教師先生いや、今は画家先生であるが、私にとっては永遠の先生であり、先生にとっては永遠に私は生徒なのだろう。
担任ではなかったが、20年経ってもたわいもない会話が交わせる先生はやはり恩師なのだ。
教師とは偉大な職業である、と改めて思ったそんな秋の日。
僕こと、佐藤文紀に説教を垂れる者はさしずめ多くない。
だが、先人から学ぶということの重要さを今日もまた“私”は踏みしめたのであった。
今度は先生のアトリエにおじゃましてみようかな、とー。(でも、お説教はごめんだけどね。)
ギャラリーを出ると秋の風が頬をなでる、清々しい午後の時間が外には溢れていた。
※
本日は、釣りの話ではなく「僕」と「私」という2人の同一登場人物を時系列で登場させました。
“私”は“僕”が20年経った後の世界の同一人物ということになっています。
とある15歳の主人公(少年)と、もう一人35歳の主人公(中年)が振り返る思い出の過去を現在に繋いでお話を綴っております。
いつもの視点を外したあえての作風で、たわいもなく交わされた日常の言葉を、やや小説風に書き綴ってみました。
でも、これは現実なので、なんだか笑えますね。
ここでお伝えしたいのはただの「日記」を知ってほしいのではなく、<過去>は<未来>に繋がっています、ということです。
ただそれだけなのですが(笑)、そこで起きたある1日の現実をそこに肉付けして小説風な作品にストーリーに仕上げてみました。
こういう書き方も、自分は出来ます。
小生、自分の名の文字に「文」という漢字が当てはまるのですが、これは7月=文月生まれという意味なのですが(少なくとも自分ではそう解釈している)、加えて「文(章)を自在に操る者」という意味があると自分では後づけして勝手に思っています。
独りよがりですが(笑)。
つまりは書き手、ですよね。
そうでなければ、単行本もムック本も連載も雑誌原稿もとてもとても書けません。
作文だけでなくて、美術の感性も一緒に今も生きていて、プロズワンというメーカーではロゴから製品名(シューティンウェイだとかロックトランジットだとか)まで私がいちから自筆でデザインしています。
私の手書きで描き出したものが製品時にデータ化して仕上げているのです。
もしあなた様と感性的な部分でも「かっこいい!」と分かり合えたなら、とてもうれしいいです。
そんな人とは、もしかしたら良い友達になれるかもしれません。
いずれにしても、それらが上手いか下手かは別としても、「絵」も「作文」も今に繋がっているのは、ちょっぴりうれしいですね。
好きなことを取り入れている作業だから、やっぱり好きなんだなと。
いつも硬派なFUMI’S BLOGも、たまにはこういうお話もいいかなぁーと思いまして。
(どうなんだろ!?)
ま、私からのサービスですわ! ワハハハッ!
最後まで秀才の作文、いや駄文にお付き合い下さり、皆様いつもありがとうございます。
今日は番外編をお届けしました。
土曜日ですから、肩の力を抜いて。 ね。
さてさて、本日は試作品が3つも仕上がる日。
こちらの作はもう3年も試作し続けているんですけどね。
やれやれ。
こだわりさえなければ、すぐに製品化できるのに。
でもー。
こだわりがなくなったら、プロズワンが作る作品ではないなぁ。
いつも目指しているのは、その先の先。
ずっと、先の世界。
そんなロックフィッシュゲームに、私は感動を覚え、いつも憧れを持っています。
だから地道にコツコツと積み上げるしかないのか、といつも心に留めているんです。
作ったプロトは数知れず。
んー、合格品があればいいなー、今日のは。
毎度、悩むところですね。
明日は日曜日です。
今週も、どうか良い週末をお過ごしください。
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10/7(土)イシグロ伊東店様・10/8(日)イシグロ静岡中吉田店様
佐藤文紀来店! 半日店長イベント開催!!
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2017年9月30日 | カテゴリー:その他