その水辺、釣り人は何を想うのか。
雨、したたる北上の水辺。
釣り人は何を想い、今日もまた川に正対するのか。
三寒四温。
朝夕の寒暖の差さえも、時に降り注ぐ雨粒さえも感じないようになると“本物”だ。
いや、感じないというよりは「気にしない」、という表現が正しいものであろうか。
これら人の本能に与える苦痛すらを忘れさせ、今日もまた真摯に川に向き合う釣り人達。
その精神はどこから漲る(みなぎる)ものなのか。
どこから湧き上がるもの、なのだろうか。
「サクラマスを釣りたい。」
その一心に、ただただ尽きるのだろう。
かつて、道北の湿原でただ一人、イトウを追い回した雨の日々の己の記憶と今日もまたサクラマスを狙う彼らの情景もまた、ふと重なるものがあった。
この日、私が遭遇した友人たちがそれぞれ手にしたサクラマス。
春雨、降りしきる北上川に今日もまた歓喜の声が轟(とどろ)く。
「大きさ」や「重さ」と言った数値で表せられるような表現とは異にする存在がそこにはある。
人生初のサクラマスやシーズン1尾目のサクラマスともなれば、尚のことそうだろう。
大河で出会うサクラマス。
大洋の遥か沖合いで出会うサクラマス。
磯や渚(なぎさ)で出会うサクラマス。
あるいは、渓流での望外の再会を果たすサクラマス。
海の港やダムの湖岸にもサクラマスに通じるその場は広がっていたりするものだ。
それらすべてが、「サクラマス」という魚が醸し出す、彩。
誰にとっても、サクラマス。
釣り人が抱くその憧れは、きっと永遠のものだろう。
この日もまた素晴らしい釣果、おめでとうございました。
その瞬間に立ち会える喜びもまた幸運なもの。
人が全開の喜びに浸る瞬間に、その場の風景の一部に自分が存在していたりすることもまた魚釣りでの大きな喜びです。
桜前線と共にめくる、“サクラ”前線。
海も、川も、湖も。
その1尾を願うなら……困惑にも屈せずにその時間さえも楽しむこと。
一見、「遠回り」に感じることもあるかもしれないけれど、私も長くこの釣りをやってきて変わらぬ想いで感じるのは、それがサクラマスへの王道だと思います。
さぁ、引き続き―。
春の光景、あの銀影を追う極上の時間に酔いしれよう。
水と光と太陽と、ともに。
2015年4月17日 | カテゴリー:釣行記