夢よ、もう一度。
2012年、3月11日―。
日本中を震撼させ、世界中に衝撃を与えたあの惨劇の日から、一年後…。
この日は一年前とは違い、蒼く澄んだ空気が漂う穏やかな小春日和になった―。
国内最高値を記録するに至ったマグニチュード9.0・最大震度7という、とてつもない激震が突如、東北の地を襲い、それに伴う海からの黒い濁流は私達、この世に生けるありとあらゆる万物を破壊しながら飲み込んでいった。人知を遥かに超えた自然の脅威に、最先端の現代科学を持ってして対打ちすることなど、とうてい及ばず、迫り来る計り知れない脅威からただ逃げる事だけで精一杯だった。
宮城県沖を発端とする超巨大連動型地震のあと、ここを起点に上下近隣、そして海の向こう側へと散った水の力は、東北~関東沿岸部の太平洋側にあまりにも大き過ぎる爪痕を残す形となり、それによって窮地に陥った東京電力福島第一原子力発電所は制御不可能の非常事態となった。その後の経緯は今日に至る通り、あまりにも残酷過ぎるものでそこに暮らしていた人々のことを想えば、言葉を発するにも胸がひどく締め付けられる想いでならない。
この平成の世。我が国・日本において本当にこんなことがあっていいものだろうか―。
今も私は疑問に思えてならない。起きた事の深刻さが未だに信じられない、いや信じたくない自分がまだそこにいる。
この一年間、人生に失墜し、これからの未来に絶望し、生きる希望さえも失いかけてきた私達が辿った道のりはひどく重く苦しいものであり、
現在も困難な生活を強いられている方々が多々いることを、この国に生ける全ての民は決して忘れてはならないものである。
悲しい時は悲しみを分かち合うこと。苦しい時は苦しみを分かち合うことが出来ることを、私は日本人の美徳であると今日まで信じてきたし、その分だけ喜びも2倍、3倍と膨れ上がることもその恩恵だと今も切に願いたい。
この度の震災で直接の被害を被った私達はその誰もが生涯、あの日に起きたことを忘れることは出来ない。
建物は新しく作り直すことが出来る。街は作り変えることが出来る。それは人間が作り上げた人工物だからだ。
でも…、深く、深く、心の底からえぐられた心の傷はそう簡単に修復出来るものではなく、この悲しみと憎しみが全て癒えることはないであろう。
それでもまた人は生きなくてはならない。どうあがいても過去には戻れないからだ。
未来という名のまだ見ぬ世界へ向けて、今日もまた新たな一歩を踏み出さなくてはならないのだ
Dream&Passion―。この「夢」と「情熱」の精神は私の生きる信念であり、己の人生を表現する最大の言葉に尽きる。
夢を持て。夢を持ったら今度はその情熱を全て注ぎ込め、という私の生き様そのものである。
これまでの29年間、私はひとえに自分のために生きてきた。
自分で己の道を切り開くことを最大の生きがいと捉えてきたからだ。
が、この度の未曾有の惨劇に直面し、そして三十路を前にした男が今、新たに想うのはDream again.【夢よ、もう一度。】
皆で同じ夢を見たくなった。復興という名の同じ未来を共に見つめて行きたい、という心境に大きく変わった。
その人生観さえにも変化が起きた。
自分達の故郷を自分達の手でもう一度、取り戻す。
特に岩手・宮城・福島の3県は街の至る所が壊滅し、これだけの多くの犠牲者が出ている以上、震災前と全く同じように戻せるかと言えば、それは誰がどう考えても極めて難しいことだろう。
人は神ではないからだ。
しかし、幸いにも生き抜くことが出来た私達がもう一度、心を一つにすればきっとまた新たな故郷を作り上げることは可能だと強く信じてみたい。
「ヒューマンパワーをなめんなよ!」
私は新しい夢を見たい。復興を成し遂げた新しい東北を自身の目で見てみたい。
それには今回直接の被災を免れた皆さん方のご支援がもっともっと必要です。
本当の意味での復興とは、むしろ今から始まるものなのだ、と考えます。
被災地には、被災地に残った私達には「頑張れっ!」と、ただ言われても、もうそこまでのパワーは正直言って残っていません。電池切れというか、気力も体力も限界に達しつつあります。それを物語るかのように、精神的に病んでいる人があまりにも多い。人前には表わさないまでも私にはそれが十分に分かるんです。
ホント、現状維持だけで精一杯の毎日です。
今回、震災から一年という大切な、大切な節目を迎えるにあたり、世間では「復興」という名ばかりがどうも“一人歩き”している気がしてならない。被災地と世間との間に違和感を感じるというか、ギャップが出てきている今日この頃です。少なくとも私はそう感じています。
だからこそ、全国の皆さんが思っているほど、「復興」は順調に進んでいない現状を、現実を、もっと“確かな情報”として認識して頂きたいのです。
街に溢れるガレキの山。
「いったい、これをどうすんのよ?」
見るたびに高く積み上がるこのガレキで、ここにピラミットでも作る気なのか?
私は一応“大人”なので、暴言を吐くつもりは毛頭ありませんが、それでも声を大して言ってやりたい。
現実には基準以下にも関わらず、放射能付着という視点から、周辺住民の理解が得られず、なかなか被災地外の都道府県での被災地ガレキ受け入れ処理が進んでいない現状がこれを顕著に表しています。
どうか東北を見捨てないでほしい。
まずは、このガレキの山を何とかしないと……、肝心の我々もなにも始まらないんです。
その旨をどうか被災地ではない地域の方々にはもう少しご理解頂きたい。
私達の気持ちを、もうちょっとだけ汲んでほしいのです。
10年後、20年後、30年後―。
あと30年も経ったら…、私も齢60歳。
還暦を迎えた私が、若きあの日に直面した出来事に終始取り乱すことなく、深く向き合える日が来ることを夢として託します。
あの、変わらない蒼い三陸の海で釣り糸を垂れる一人の年配の釣り人は、いつの日かの自分。……なんだろうか―。
……少し前に、そんな夢を見ました。
夢よ、もう一度。
夢よ、現実となれ!
これからも被災地の復旧・復興には全国の皆さんの、世界の皆さんの多大なるご支援とご協力が必要不可欠です。
ぜひとも被災地を温かな心で末永く見守っていて下さい。
我々も、もう一度立ち上がりますから。
さぁ、東北の皆さんも少しだけ元気を出して。
もう一度、頑張ってやってみっぺし!
3・11から一年の記
佐藤文紀
2012年3月14日 | カテゴリー:その他